スポンサーサイト
-- / -- / -- ( -- ) 上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書く事で広告が消せます。 |
「検査マニュアル私が作った」提出拒んだ木村容疑者
2010 / 07 / 18 ( Sun ) 金融庁の検査を妨害した銀行法違反(検査忌避)容疑で14日に逮捕された日本振興銀行(東京都千代田区)前会長の木村剛(たけし)容疑者(48)。
小泉政権時代は竹中平蔵・元金融相のブレーンを務め、「金融界の寵児(ちょうじ)」ともてはやされた男は、なぜ転落したのか。(振興銀事件取材班) 「(金融庁の)検査マニュアルは私が作ったもの。あなたたちより熟知しているんですよ」 2009年6月から振興銀で始まった金融検査。金融庁の検査官に対し、木村容疑者は資料の提出を拒み、「検査マニュアルにはそのような資料の提出義務が明記されていない」との理由を挙げてみせたという。 金融検査は通常、3か月程度で終わるが、振興銀の場合、異例の約10か月間におよんだ。ある金融庁関係者は「木村さんに徹底して妨害された」と明かした。 ◇ ◇ 富山市出身。地元の県立高校ではサッカー部でフォワードを務めた。3年連続で全国大会に出場した上、現役で東大に合格。ゼミの指導教授だった岡野行秀さん(80)は「成績はずば抜けていた」と話す。 1985年に入行した日本銀行では早くから頭角を現し、「いつまでも日銀にいるつもりはない」と平然と言ってのける自信家で知られた。入行時の面接官だった元日銀総裁の福井俊彦氏もこの優秀な若手をかわいがり、仲人まで務めた。 35歳だった98年3月、外資系コンサルティング会社の日本法人を設立。すぐに金融監督庁(現金融庁)の「金融検査マニュアル」の検討チームに招かれた。検討会では、当時、接待汚職事件で揺れていた大蔵省(現財務省)の裁量行政を真っ向から批判。次第に金融界の「論客」として恐れられる存在となっていった。 不良債権問題が深刻化した02年には、金融庁顧問となり、不良債権対策チームの中核メンバーとして「金融再生プログラム」(竹中プラン)を策定した。「知恵の一滴まで絞ってくれた」。竹中氏はそう言って、その仕事ぶりを絶賛したという。木村容疑者も、竹中氏が立候補した04年の参院選では、JR新橋駅前の街頭演説に駆けつけ、「こんなタフな学者を見たことがない」と熱弁をふるった。竹中氏との蜜月関係が、木村容疑者の金融界での地位を高めていったともいえる。 ◇ ◇ だが、金融界きっての「理論派」は、実際に巨額の金を動かし、利益を追求するビジネスの世界では次第に追い詰められていく。 中小企業を支援するという高い理念で04年に開業した振興銀は、「黒字化」の目標期限と掲げた07年3月期以降、利益追求の拡大路線にかじを切っていった。「焦りが彼を誤った方向に向かわせてしまった」と、振興銀元役員は振り返る。 08年夏には、融資先の中小企業を集め「中小企業振興ネットワーク」を結成。企業同士の助け合いをうたいながら、実際は振興銀の拡大路線に利用した。 同ネットワークの加盟会社の社長は昨年10月、東京・日本橋のビルに他の経営者らとともに木村容疑者に集められ、投げられた言葉が忘れられない。 「2週間後の会議まで、100件の融資先を紹介し、成約までこぎつけるように」 「無理難題」と思ったが、「彼の指示は絶対。断れる雰囲気ではなかった」。 加盟企業には、大手銀行から融資を受けられないような会社も少なくなかった。優位な立場にあった振興銀は役員を送り込むなどして、実質的に支配していく。木村容疑者の指示で削除されたとされる700通以上のメールには、同ネットワークとの間で行われた不透明取引の記述もあった。 「今は自宅に戻らず、転々としている。メール削除にはかかわっていないから……」。逮捕直前、振興銀元役員に、電話で潔白を主張した木村容疑者。「それなら公の場で説明するべきだ」と元役員が諭すと、数秒の沈黙の後、電話は切れた。 ☆…今月のピックアップ…☆ 体臭が気になる方向けの人気消臭下着 ★ポイント10倍!【瞬感消臭男性用ブリーフ】/くさいニオイもすぐ分解!新素材の消臭下着【瞬... |
|
| ホーム |
|